南青山デンタルクリニック・リクルート

幸せになりたい

自分を好きになる

自己嫌悪率100%だった私だから言えると思いますが、自分を好きになる事は、全ての人にとってのテーマではないかと思います。
自分のことを受け入れられない人が、他人を受け入れられることはありません。
自分のことを好きなれないということは不幸です。
不幸な人が他人に優しくなれるはずがありません。
人は自分が持っている優しさや思いやりの一部を他人にも分け与えることができると思っています。

自分を好きなるということは、傲慢、自己中心、自信過剰、ナルシストとは似て非なるものです。
私の考える自分を好きになるということは、 I am OK. You are OK. です。
一方、傲慢、自己中心、自信過剰、ナルシストは、I am OK. You are not OK. です。
自分も頑張ってるよ、すごいね。
みんなも頑張っているんだね。みんなもすごいよ。
と思えれば、心は常に安定できると思います。

自分を受け入れられない人は、他人の批判、あら捜しをして他人を自分より劣った人間にしようとしてしまいます。
自分が努力するよりも他人のあらを捜して貶める方が簡単なので、どうしても人は安きに流れます。
しかし、その先には心の安定はありません

自分を好きになるためには、もう一人の自分に対して恥ずかしくない言動をしていかなければなりません。
一朝一夕には、人は成長できないですが、日々少しづつ自分に恥じない言動を増やしていくことで、自分のことを少しづつ受け入れていき、好きになっていけるのではないかと思います。

現在、過去、未来

人は、現在、過去、未来を使い分けながら生きているように思います。

その使い方を間違えると、過去に固執して今をないがしろにしたり、未来を心配して今現在をおろそかにしたりしてしまいます。

一番大切なのは、今現在をどう生きるかです。

私は、過去と未来は、今を充実させるための道具だと思っています。

今をどう生きるかで、過去を正当化でき、未来が明るいものになってきます。

しかし、生きているといろんなことが起こりますし、日々、常に前向きにエネルギッシュに生きることは難しいです。

そんな時、過去を思い出して自分の成長を喜び、未来を夢見てワクワクすることで苦労を楽しみに変えていくことができるようになると思います。

今後、過去を思い出して成長を喜ぶためには、今を頑張らなければいけません。

未来を夢見る時、ワクワクするような夢を見るためには、今を頑張らなければいけません。

現在と過去、未来はつながっているのです。

過去と未来を輝かせるためには、今現在を充実させていくしかないのです。

現在、過去、未来を悪循環で回していくか、良い循環で回していくかは、今をどう生きていくかにかかっていることを自覚して生きていきたいと思います。

幸せを感じる

私の心がけている習慣の1つに「幸せだなー」とつぶやくことがあります。
 何かいいことがあったからつぶやく時もありますが、何もなくても「幸せだなー」とつぶやいて、その後で幸せの理由を捜す場合が多いです。

何かを与えてもらって幸せを感じることは誰でも出来ますが、なかなか大きな幸せはそう頻繁に与えてもらう機会があるものではありません。
 そうなると、与えられることを待っていたのでは幸せを実感できる回数が極度に少なくなってしまいます。

「幸せになる」のではなく「幸せを感じる」ことが「幸せ」の本質だと思います。
 小さな幸せに感謝できる習慣を身につけることで、時々やってくる、与えられる大きな幸せにも、今まで以上の喜びを実感できるのだと思います。

本来、幸せはどこにでも落ちているはずです。
 「感謝」の反対は「当たり前」です。
 感謝できれば、幸せを感じます。幸せを感じられないのは、感謝できないからです。感謝できないのは、当たり前だと思っているからです。

世の中が便利になる事はいい事です。
 しかし、便利になればなるほど、当たり前が増えていく事は、人間として不幸になっているのかもしれません。

「今日も晴れててありがたいな」「今日も雨がふって水が使えてありがたいな」「本によって他人の経験が勉強できてありがたいな」「今日も健康に過ごせてありがたいな」「風邪ぐらいの病気をすることで健康の大切さを再認識できてありがたいな」・・・・

グチを言うのも言葉、幸せの理由を捜すのも同じ言葉ですが、発する言葉でその人の未来が違ってくるのです。
 今の考え方が、その人の未来を創っていくのです。

優越感vs劣等感

人間は無意識レベルで何気なく生きていると、他人と比較をして生きているように思います。
 そして他人よりも優れた点を見つけては喜び、他人より劣っている点を見つけては落ち込み一喜一憂してしまいます。
 できれば優越感だけを感じて生きていきたいので、劣等感を感じそうになったら本能的にその人の足を引っ張ろうとする気持ちが芽生えてきます。
 その最たるものが「いじめ」だと思います。
 いじめは自分が優越感を感じていたいから、する卑劣な行為だと思っています。
 いじめの根本的な問題は、他人との比較です。
 他人と比較するから優越感と劣等感を感じてしまうのです。

人間は本能と理性があります。
 本能で生きれば、他人と比較して生きてしまいます。
 理性で生きれば、他人と比較するのではなく、過去の自分と比較して生きていけます。
 言葉を変えれば、感情で生きれば他人と比較して生き、理想を目指して生きれば過去の自分と比較して生きていきます。

私の今年の最大のテーマは、「感情で生きないで理想で生きる」ということです。
 他人と比較して一喜一憂するのではなく、自分の成長に目を向けて一歩一歩確実に前進していることを喜んでいきたいと思います。
 他人と比較して優越感を感じた時は、優越感を感じる考え方は、明日は劣等感に代わることを肝に据えて反省し、他人と比較して劣等感を感じた時は、相手を妬むのではなく、その人の目に見えていない努力に敬意を向けるようにしようと思います。
 そして、他人と比較しないで自分の過去と比較する生き方を習慣にできるように、意識的に理想に向かって生きていきたいと思っています。
 一喜一憂する生き方を戒め、常に安定した気持ちで生きていきたいと思っています。

奪う幸せ~与える幸せ

幸せには4つのタイプがあります。
 それは奪う幸せ、与えられる幸せ、獲得する幸せ、与える幸せです。

世の中には、人から何かをしてもらうことでしか幸せを感じられない”与えられる幸せ”を求める人が大半でしょう。
 向上心の強い人は、自分で何かを“獲得する幸せ”を目指します。
 そして本当の幸せは、人に与える幸せを知っている人なのです。

一方、最悪なのは、人から何かを奪おうとして、奪うことで得たものを幸せに思っていることです。
 他人から何かを奪えば、奪われた人は取り戻そうとしたり、普段から、何かを奪おうとする雰囲気を感じ取れば、周りの人は奪われないように自然と防御が固くなります。
 奪うタイプの人は、奪ったものは目減りし、日に日に奪いにくくなってきます。

一方、人に与えるタイプの幸せな人は、与えたことで幸せを感じた上に、与えられた人の一部は自主的に何かを与え返そうとするようになっています。
 従って、何かを与えることで知らない間に複利がついてくるということなのです。

奪うことで幸せを感じる人は、法律的には牢屋に入らなくても、社会において日々不幸せ、恐怖心という重荷を背負って生きているのです。
 人間の本能として、奪ってでもてっとり早く何かを得たいという気持ちが存在するのは仕方のない事かもしれませんが、人から奪うことだけを幸せに感じている人と接する場合には、不快に感じて当然ですが、そういう人は不幸という十字架を背負って、負のスパイラルの真只中にいる人であり、同情すべき可哀想な人なのです。

「ない物ねだり」と「足るを知る」

人間は、日々大きな矛盾に突き当たりながら生きていかないといけません。
 その1つの例として、多くの場合与えられていることに感謝するのではなく、与えられていないものを欲しがるようにできているように感じます。

人間は「他人の芝生は青く見える」「ない物ねだり」をする動物なのではないでしょうか。
 それは今持っていない物を、どうにかして手に入れようとがんばるから能力が向上するメリットもあります。

しかし、常に無いものを求めていたのでは、心が満たされることはありません。
 平穏な気持ちになったり、満たされた気持ちになるためには、逆に自分の持っているものに感謝して「足るを知る」生き方をしていくことが大切になってきます。

このない物を手に入れようとがんばる姿勢と、持っているものに感謝して満たされた気持ちで生きている、一見相いれない2つの考え方のバランスをとって生きていくことはとても難しいのです。

理想としては「足るを知って」日々持っている物、与えられている物に感謝しながら、満たされた気持ちのうえで、目標を持って更に上を目指していくことなのでしょうが、人間は本来、怠け者なので、心が満たされていますと楽な方へ流されがちなのです。

心が満たされないで、今の状況を何とか良い方向へ変えたいと思うからこそ、つらい努力も出来るのです。
 気持ちが充実していて、モチベーションが高い時は上昇志向で上を目指して、心が晴れなくて、前向きになれない時には、過去の自分を誉めながら足るを知って幸せを感じていくのが正解のように感じます。

自分に対して常に鞭打って叱咤激励していたのでは、自分の事が嫌いになってしまいますし、幸せを感じる事が出来ないのではないでしょうか。
 スポーツにおいても、トレーニングと休息のバランスが大事なように、「ない物ねだり」と「足るを知る」バランスをとれる人が仕事においても、人生においても成功者となれるのだと思います。

この関係をスポーツで例えて言えば、「トレーニング」が「ない物ねだり」に当たり、「休息」が「足るを知る」ことになるでしょう。
 このバランスの取り方は、各々の性格や今現在おかれている状況によって違ってくるのではないでしょうか。

「人は幸せになる為に生きている」「自分の事を好きにならなければ他人に優しくできない」という原理原則からすると、「足るを知って」意識的に自分を受け入れて誉めることをしていく事はとても大切なことだと思います。

幸せも不幸も伝染する

幸せも不幸も伝染します。
 幸せな人の周りには幸せな人が集まり、不幸な人の周りには不幸な人が集まります。
 類は友を呼ぶのです。

幸せな人も交通事故のように、本人が望まなくても1日に何度も不幸な人と接触しますが、幸せな人は不幸な人に不幸ウィルスをうつされそうになっても、対処の仕方を知っていて、短期間でまた正常の幸せな状態に戻れるのです。

逆に不幸せな人がたまたま幸せな人と出会えても、幸せな人の足を引っ張ろうとしたり、その人をねたんだり陰口をたたいたりするので、幸せな人は不幸な人からは離れてしまうのです。
 人生は、自分の考え方の結果が形となって現れているのです。

そうは言っても、いくら幸せな人でも不幸のウィルスをしょっちゅう与えられると、少しは感染されてしまいます。
 そのために、不幸ウィルスの少ない環境で生活していくことが、幸せを維持する最も簡単な方法なのです。

私の職場には幸せな社員がいっぱいですので、この中にいるだけで、周りの人も自然に幸せを実感できるのです。
 逆に不幸な人の中にいて、自分だけ幸せを感じることは不可能なのです。
 幸せな人は「感謝、思いやり」に充ち溢れ、不幸な人は「不満、妬み、怖れ」に充ち溢れているのです。

「悪貨は良貨を駆逐する」ということわざがありますが、幸せな人間になるために一番確実な方法は、幸せな人の中に飛び込んで素直な気持ちで「感謝する気持ち」を真似ることです。

世の中は不公平か?

結論から言うと目に見える形としては、世の中は不公平です。
 生まれた時から顔も違えば、IQも違います。お金持ちもいれば、そうでない人もいます。

しかし、目に見えないものに関しては、世の中は、公平にできていると思っています。
 お金、健康、容姿、仕事など目に見えるものには、個人、個人で必ず差があります。

しかし、その差と幸せの程度とは必ずしも一致しません。
 健康だった人が、事故で体に障害を持った時に、現実を受け入れるのに時間はかかりましたが、受け入れた後に健康だった時より今の方が幸せだという事を言われていました。
 それは、他人の優しさ、思いやりなどの「愛」を感じる力が、健康な時より強くなったからだと言われていました。

目に見えるものを追及しても、その先にはもっと大きな欲望が待ち受けていて、そこには満たされる気持ちがありません。本当の幸せはないのです。

しかし感謝する気持ち、「愛」を感じる気持ちが強くなればなるほど、その人は幸せになれます。
 人間は、意識していない時には、損得の感情で流されやすくできています。
 しかし、本気で幸せになりたいのであれば、意識的に愛を感じる生き方を選んでいかなければいけないのです。

愛を感じる生き方とは、自分が不公平だな、恵まれていないな、損しているな、と感じる時にこそ、育まれるものだと思います。
 自分が損していると思える時にさえ、それを受け入れて、さらに前向きに考えられる事で、自分はツイテいるなと思える時間が増えていくのです。
 感謝の程度もより深くなってくるのです。

日々の事実や出来事をコントロールする事はできませんが、自分の受け止め方はコントロールできます。
 出来事は同じでも、プラスに考えられる人とマイナスに考えてしまう人がいるのです。その割合は、悲しいかな、マイナスに考えてしまう人が大半なのです。
 普通に生きている限り、大半のマイナスの中に入ってしまうのです。

プラスに考える人間になるには、自分で「愛」を追求する人生を生きていく決意をしていくしかないのです。
 損得勘定をなくす必要はありません。なくすことは不可能です。
 100%損得勘定で生きる事に問題があるのです。
 「愛」を求める割合を1%ずつでも増やしていく姿勢が大切なのだと思います。

そして本当の幸せは、目に見えるものではなく「愛」のパーセントが多い人ほど幸せな人生なのです。
 目に見えるものは不公平でも、目に見えないものは公平なのが人生なんだと思います。

正直者は得をする

多くの人が「世の中は正直者がバカを見る」のではないかと考えたことがあるのではないでしょうか。
 私自身、かなり長い間こう思っていました。
 世の中は「ゴネたほうが得する」のではないかと感じて、無理してゴネようとしたこともありました。

短期のスパンで見れば一見得しているように見えることも、長期のスパンで見れば、やはり正直者は損しないようになっています。
 食事をしに行って、目の前でゴネている人が料金を安くしてもらったり、文句を言った人への対応が、特別丁寧になったり、そういう事例を見るたびにゴネる態度をできる人が少しうらやましかったものです。

しかし、そういう人は、他人を威圧することで自分が得したと感じ、その後も他人を威圧して自分だけ得しようとし続けるのです。
 その態度で相手が屈しなければ、さらに威圧感を強めようとしてきます。
 極論すれば、それはまるで暴力団の世界のようになってしまいます。
 その行きつく先は、容易に想像できるのではないでしょうか。

ゴネて得するのはその場だけです。
 一見得したように思えても、目に見えない多くのものを失っているのです。
 人間関係で一番大切なのは、信頼感や安心感なのです。
 他人を威圧して思い通りにコントロールすることよりも、信頼関係の強い人間関係を維持していくことの方が大切なのです。
 やはり正直者は最終的には得をするのです。

無期不幸

人間関係において、世の中には理不尽なことを言い通す人がいます。
 モンスターピアレンツ、クレーマー、DV男、独裁者、………
 日常生活においての悩みの多くは、人間関係の悩みが多くの部分を占めていますよね。

私は、「人は幸せになるために生れてきた」と思っています。
 それなのに、幸せになる努力をしない人は、日々生きているのがつらくないのだろうかと思います。
 その典型的なタイプの人が、怒ったり、怒鳴ったり、相手を威圧することで常に自分が優位な立場に立とうとしている人です。

人間には、力で相手を抑えつけようとする人と、話し合いでその意味、自分の意図をわかってもらって解決しようとする対応があると思います。
 なにがなんでも自分の意見を通そうという人は、力ずくでも相手を抑えつけようとか感情的になります。

そういう人の多くは、家庭環境や職場環境において、自分がそういう風に抑えつけられて育ったからその反動で、同じように相手を力で抑えつけようとする人が多いみたいです。
 相手が誰であろうと、力ずくで相手を従わせても、そのしわ寄せや反動が、必ずいつかはやってきます。
 力による抑制の究極が戦争です。戦争しか選択肢がないから、戦争になっているのかもしれませんが、戦争では本質的な物事は解決しないのではないでしょうか。

表面的には、相手を動かせたように見えても、力だけでは人を動かすことはできないのです。
 感情的な力の誇示によって、優位な立場に立とうとするタイプの人と出会ってしまうと、とても不愉快な気分になってしまいます。
 そんな時に、少しでも自分の心を軽くする魔法の言葉があります。

それは自分が裁判官になって、その人に判決を下すのです。
 裁判で「死刑」「無期懲役」などのように、力で相手を自分の思うように従わせようと理不尽なことを言い通す人は、幸せになることを諦めているのですから、永遠に不幸である「無期不幸」の判決を下すのです。

その人が自分の生き方や考え方を変えるまでは、不幸は続くのですから、心の中で「あなたは無期不幸に処する」と判決を出してあげるのです。
 もちろん、「生き方や考え方を改善した場合には、不幸の期間は短縮させるでしょう」という執行猶予は付けておいてあげてください。

というか、マイナスのことを必要以上に深刻に考えないで、上記のようにゲーム感覚で軽く考えることで、自分の心の乱れに踏ん切りをつけて、1日も早く前向きなことに意識を向けていくことが大切だと思います。
 他人は変えられないが、自分の感情はコントロールできるのです。

人間万事塞翁が馬

人間は、ある程度満たされている時には足りない物を捜して不満を感じて、逆に、満たされていない時には、ありふれた幸せに敏感になるのではないだろうか?

人の欲求は満たされることはありません。
 もっと欲しいという気持ちになれば、どんなものでももっと欲しくなります。
 皮肉な事に、ある程度足りていると、ない物ねだりで足りない物を捜し、全然足りない時には、普通である事で幸せを感じます。
 人間にとってどちらが幸せなのか分らないです。

人間の幸せには、感謝の気持ちが不可欠です。
 感謝するとは幸せを感じると同じ事ですから、たくさん感謝できる人間がたくさん幸せでもあるのです。
 満たされ始めると「もっと」を追及してしまう人間の性は、どうすれば解決できるのでしょうか?
 私の考えでは、目に見える物に惑わされない自分の価値観を持つことではないでしょうか?

「人間万事塞翁が馬」ということわざがありますが、目の前で起きている現象は幸せとは関係がありません。
 幸せだと思っていた事が不幸の始まりだったり、ついていないと思っていた事が、幸せへのチャンスだったりする事はたくさんあります。
 同じ出来事に対しても、幸せだな、ついてるな、チャンスだなと前向きに思える思考回路を持つことが幸せへの近道ではないでしょうか?

人は方向性が見えていて、出来事の意味と価値がわかれば前向きになれます。
 1つ1つの意味と価値を見つけるためには、いろんな事に対して「何の為に……」に対する自分なりの答えを見つけていくことのように思います。

自分が仕事をするのは何の為だろう?
 何の為に生きているのだろう?
 何の為に今の職種についているのだろうか?
 何の為に掃除をするのか?
 自分が幸せを感じるのはどういう時だろう?それはなぜだろう?
 …………

人間は多くの部分を視覚で判断しますので、目の前の現象に惑わされないという事はとても難しい事かもしれませんが、「星の王子様」の本の言うとおり物事の本質は「大切なものは目では見えない」のですね。
 他人がなんと言おうと、目では見えない価値を自分の中で確信している時には、幸せを感じられるのではないでしょうか?

自分が変わろうとする人vs他人を変えようとする人

世の中には幸せな人間とそうでない人間がいます。
 その2種類の人間のどちらになるかの違いは、その人が「自分が変わろうとする人間」であるか「他人を変えようとする人間」であるかの違いのように思います。

自分のほうが変わろうとする人間は、いつかは必ず幸せになりますが、他人を変えようとする人間は、その時点から不幸がついて回ります。
 他人と過去は変えられません。
 その変えられないことを、一生懸命変えようとするのですから、永遠にその人の心が満たされることはありません。

常に何かしらの不平不満で一杯になります。
 その人が、自分が変わろうと気づくまで不幸は続くのです。
 他人を変えようとすることは、言葉を換えれば、「自分は一切間違っていない、自分は絶対正しい」ということなのです。

「自分は間違っていない、自分は正しい」と思うこと自体は有害ではないと思います。
 しかし、それがエスカレートして、だから相手が変わるべきだと自分の価値観を強要することは、間違っていると思います。
 相手が変わるかどうかは、その人自身が気づくまで変わらないのです。

多くの物事は、一方が100%悪いということはありません。
 どちらかがより悪いという比較の問題で、どっちのほうがより正しいかという基準で判断されてしまいます。

「泥棒にも3分の道理」ということわざのように、泥棒でさえ自分の言い分があるのです。
 そんな時に、相手がどんなに悪くて、どう変わるべきかを延々と説教しても何も変わらないのです。
 どんな時でも相手を非難、攻撃する代わりに、自分の成長のために改善できることがあればそれを取り入れていくことが幸せへの近道なのだと思います。

相手を変えようとする努力を、自分が変わることで自分が成長すればいいのです。
 相手も、本気で幸せになりたいと思った時に、他人を自分の価値観に変えようとする行為の無意味さに気づくのです。
 他人を変える労力を自分が成長する方向に向け、その無言の後ろ姿に相手が何かを感じて、その人が自主的に変わっていくというのが、ベストのいい循環なのだと思います。

相手が変わるかどうかは、その人が気づくかどうかの問題なので、雨の日を無理やり晴れさせようと努力することと同じぐらい無意味なことなのです。
 自分が幸せになりたければ、自分のほうがより成長、改善していくことだと思います。
 そういう人間が増えていくことで、社会が平和でみんなが住みやすい世の中になってくるのだと思います。

日本の今の時代の流れは、このま逆に進んでいるように感じるのは、私だけでしょうか?
 私も幸せになりたいので、自分の方が変わるように頑張ります。

心にもない事を言おう

「心にもない事を言う」と聞くと偽善者、いい加減な人、といった悪いイメージを持つのではないでしょうか?
 私の例でいいますと、私が開業当初赤字で大変な時に、「頑張れよ」「早く軌道に乗るといいね」と知り合いに言われた時に、ひねくれていた私は「この人は本当に本心でそう思っているのだろうか?」「人のことを本当に心配してくれているのだろうか?」と疑心暗鬼になったものです。

また、友人の結婚式で泣いている人を見て、自分が結婚していて幸せな人は分かるが、自分が結婚していなかったり、彼氏がいない人は「本当に心からおめでとうと言っているのだろうか?」と斜に構えた見方をした時期があります。
 私の中で、長い間、心にない事を言う人は、心にない事は言わない人以上にずるい人だと思っていました。

そうして長い時間がたって、私の中で、心にない事を言う人は、心にない事は言わない人よりも立派な人に変わってきました。
 と言いますのも、心に思わなければ言ったらいけないとなれば、人間的に成長するまで、相手を思いやる言葉を言えなくなります。
 心にあろうとなかろうと、口に出すという行為に意味があると思えてきました。

心にもない事を言う人には2種類あります。
 相手から何かをしてもらおうと思って、心にもない事を言って点数を稼ぐ人と、今は心にもないけど、いつかは心からそう思えるように成長しようと思って、相手を思いやって頑張って発言している2タイプがあります。

前者の様な、自分のメリットの為に心にもない事を言う人は、偽善者ですが、いつかは心からそう思いたいと思いながら、相手を思いやる言葉を言う方は、時間がたてば、必ず心からの思いやりの言葉が発せられます。
 心が先か言葉が先かと言われれば、多くの凡人はまず言葉を先に思いやりと愛に満ちた言葉にしていく事が大切だと思います。

心にないという言い訳で何も言わないよりは、例え心に思っていないとしても「ありがとう」といえば相手は嫌な気持ちはしないものです。
 まずはいい言葉を習慣にして、気持ちは後から追いかけていくと信じる事で、時間がたって気付いた時には、成長している自分に気付くのではないかと思います。
 そして言葉に伴って、心が後からついてきて心と言葉が一致した時には、相手が感動するような言動が出来る人間になれるのではないかと思っています。

私自身、まだまだ、言葉と心が一致していないので、その境地は想像でしかありませんが、いい言葉を習慣にして、他人を思いやれる人間になれれば、日々の幸せが増すのであろうなと思っています。

否定しない生き方

「私はどうして他人の意見を素直に受け入れられないのだろうか」と自分で反省してしまいます。
 それが本能であって、それを克服する事が幸せになるヒントでもあるように思います。
 人の話、新聞、TVからの情報、政治家の方針………
 何かの情報が頭に入ると「でも……」といったん否定してから自分の意見が頭をよぎります。

尊敬には自尊心と他尊心がありますが、多くの人にとって、自尊心は自然に持つことができますが、他尊心は自分で意識しないと持つ事が出来ないのではないでしょうか?
 他人の意見や考え方を否定する事は簡単です。
 完璧な意見や方針などありません。
 どんなものでも例外や欠点は捜せます。重箱の隅をつつこうと思えば必ずつつけるのです。

相手を否定して、どんなに自分が正しいかを言葉にすればその瞬間の気分は良くなります。
 しかし、否定された相手はいい気分がしませんし、自分の中でも時間がたってくるにつれ、気分がすっきりしない場合の方が多いのではないでしょうか?
 心の中では、相手を否定している自分を好きになれない愛に満ちた自分も存在しているのです。
 競争、競争で育てられた学生時代を過ぎて社会人になっても、それまでの名残りとして、人と比べる生き方を無くすことは難しいのです。

人と比べる生き方をすれば、自分が上がるか、相手が下がるかのどちらかになります。
 自分が上がるのは大変ですが、他人を下げる事は簡単です。
 こういう心理が働いて、無意識で相手の足を引っ張ったり、相手を否定する発言をしてしまうのではないでしょうか?

長い時間かけて身についた悪い癖は、同じぐらいそれを取り除くのに時間がかかります。
 競争自体を否定して、運動会で順位をつけないとかいう事は賛成できませんが、競争と同じくらい協調を大切にして生きていく事が、幸せになる為には不可欠な事のように思います。
 そういう意味で、他尊心を育む一番の方法は、普段の日常において、他人や周りの状況を否定しない生き方ではないかと思います。

何かを言われて「でも……」と否定する習慣を「そうだよね。そういう意見もあるし、こういう意見もあるよね。……」とまずは相手を受け入れる習慣に変えていきたいと思います。
 「自分が自分が……」という人は間違った自尊心が強い人です。
 「どうせ私なんか……」という人は間違った他尊心が強い人です。

心が平和で幸せな人は、自分も素敵だが他人も素敵という、自尊心と他尊心のバランスが取れている人ではないでしょうか?
 今の私の課題として、競争から協調へと進路を変えていくためには、否定しないで受け入れる生き方をしていきたいと思います。

上記のように、自分が否定しないで受け入れる生き方を目指せば、他人が自分を否定した時にも腹を立てることなく、相手が本能のままで生きていて可哀想だなと俯瞰した見方が出来るおまけまでついてくるのではないでしょうか?

拷問と修業

自分の経験から言って、院長にとって、患者様とのトラブルや話の食い違いほどストレスになることはないのではないかと思います。
 人間は、基本的に争い事やトラブルを好みません。
 誰しも平和で穏やかに生きたいと願っているのです。

しかし現実には、生きている限り、いろんなトラブルや予期しない事件は必ず起こるのです。
 どんなに静かに、おとなしく生きていても、他人にとっては自分の思いと違う場合もあるのです。
 医院のトップとして、日々経営していくことは、つらいことにも出会います。
 人生全般の困難を、避けよう、避けようとしていた時期もありました。
 しかし、いくら逃げても、人生において、つらいことを避けて生きることが出来ないのですから、前向きにとらえていくしかないのです。

同じつらいことが、ごう問になるか修業になるかはその人の考え方1つなのです。
 例えば、受験勉強をする場合でも、その後に楽しい大学生活や社会生活が待っていると思うか、ただ親がガミガミ言うから仕方なしに勉強するかでは、同じ勉強でもごう問と修業の違いがあるのです。
 また、スタッフの問題が生じた時に、「なんで俺だけこんな目に合わないといけないんだ」と思うか、「このトラブルをきっかけにきちんとした就業規則を作るぞ」と前向きに考えられるかで、拷問にも修業にもなるのです。

結論を言いますと、トラブルが解決した向こう側に、自分に対するごほうびを設定できればそれは修業になりますが、ごほうびが思いつかないとごう問になってしまうのです。
 これは考え方の習慣なのです。
 つらいなと感じた時には、その先にはどんなごほうびがあるかを考える事が出来れば、気持ちは断然楽になってくるのです。

全ての困難がご褒美に思えるような考え方が出来れば、毎日楽しくてしょうがないのだろうなと、想像するだけでワクワクしてくる今日の頃です。
 星の王子様の「本当に大切なものは目では見えない」と言いますが、見えない物に気付く事が生きていく上での成長なんだと思います。